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秦戦紀

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2020年8月15日 (土)

山の竜と虎:蜀漢甲斐分析㈢

蜀の滅亡

現場の声を聞き取れない国は危うい

 

 古来よりイメージが固定している人物は数多い。今年(2020)の明智光秀もその例にもれない。人の巷説の雲の厚さは考古物による事実検証という太陽の出現によってようやく世の中に等身大の姿が景と共に現れるのであろう。ローマのティベリウス、ユリアヌス、ヴェスパシアヌス。。 
 横山三国志、演義、ゲームキャラにいたるまで魏延は諸葛亮死後に裏切りを起こした、忠誠度低い武将像とは今でも消えない。かくいううしつぎもそのイメージから離れられなかった。だが・・・、

 最近になって地政学の本を読み、その像に歪みがあるのではと思ってきた。今では、 うしつぎは魏延は名将であると思えるようになった。たとえて言うならばナポレオンの元帥達でランヌに該当すると思う。

 蜀の魏延は叩き上げの荊州出自の武将である。不遇をかこっていた自分を取り立ててくれたのは劉備だった。劉備も魏延を評価して蜀に従軍させた。大恩と厚遇をうけたそんな男が、劉備と共に建てた国に背いて魏風情に裏切るだろうか? 

 それも漢中王と成った劉備は草創の臣である張飛を退けて、対魏最前線の漢中太守に抜擢しているのだ。 そもそも抜擢において三国志最高君主は劉備のみとうしつぎは評価している。無論、曹操より上だと。

 指揮官は前線に有りとは軍事の金言だが、軍人の才能もこれに例外はない。

 軍人では最前線で活躍する将軍が戦略の才能を開眼するのは歴史ではよくある事例である。ローマでもカエサルがそれであるし、幕末で次の時代をにらんだ改革を発案できたのは鎖国にあって貿易を通して異国と接してきた侍達ではなかったか。

       

💦うしつぎは、劉備亡き後の諸葛亮の北伐の重大さを一番理解していたのは魏延だと確信している! 魏延は漢中にあって魏の強さを見続けた。魏の国力の凄さを実感していたのは何も諸葛亮だけではない。現場で得られた危機感は戦場のみならず戦略でも最も貴重である。

 このままでは蜀は危うい。魏延は軍人としての危機感からそう確信したに違いない。事実、蜀は魏に滅ぼされた。

 うしつぎは魏延が執拗に子午谷から急襲して長安を攻め取る策を言い続けたのはそれが理由だったのではないかと思う。のんべんだらりと待っている時間は無い。なにをぐずぐずしているのかと。おそらく諸葛亮も魏延の危機感が本物であると理解していたと思う。

  魏延の作戦は諸葛亮の天下三分の計を戦術面でシャープにしたものだった

  1. 子午谷から進んで長安と周辺を制圧して保持する。
  2. 浮き足だった魏軍を西から丞相の軍が進んでこちらに合流する。

 いささか韓信の長安奇襲策に似ていなくもないが、牽制戦略は蜀のお得意の筈だった。日本と違い広大な中国では十分に成算の見込みはある。劉備の時には荊州の関羽が担当していたが、関羽自身がこの戦略を理解していなかったことが蜀の致命傷にして麦城の悲劇があった。

 魏延の軍才は戦略面では関羽より上だったのではないのか。劉備はそれも見抜いていたのではないだろうか。

 だが小国蜀では博打はできない。諸葛亮は魏延の武勇と戦略の才を認めつつもその意見を採用できなかった。おそらくは魏延を失うことも恐れたかもしれない。
 しかし、魏延は落胆し、諸葛亮を臆病者と言う。やむを得ないと諸葛亮も黙認せざるを得なかったのは一重に小国の哀しさ故とは言い過ぎであろうか。機を逃した。

 こう考えれば諸葛亮の死後、魏延が粛清されたのは某説のように楊儀との諍いのせいで諸葛亮は無関係かも知れない。あるいは国の結束化を謀り、積極策の魏延を粛清してまとめたのであろうか。。

    

 諸葛亮、そして魏延の死後、蜀は魏に対して画期的な策を打てなかった。孔明の長安込み関中を掌握して荊州の代わりの穀物エリアを奪取して躍進ハートランド化する戦略ラインを隴西まで後退させることにしたのだ。    

 例外的に画期的な策で挑んだのがおそらく諸葛亮の指名を受けた蒋琬だと思う。彼は水軍を使い水陸両用作戦で荊州北部を占領しようと計画する。水陸両用で作戦を進めるのは赤壁で曹操も使ったし、東征の劉備でも陸は自分が率いたが、水軍は黄権に任せて進軍していた。文官出自でありながら戦略の才が豊かである蒋琬は往年の黄権と似ている。

 その黄権を抜擢したのも劉備である。元劉璋側近で文官で有りながら劉備は軍事に抜擢した。夏侯淵を斬り捨て、曹操親征軍を追い払い漢中を劉備は奪取する。その戦略は黄権が前もって献策したものに沿ったものだった。

 漢中、そして征呉に従軍して水軍を任せられた。相当の信頼である。劉備在世で元蜀臣でここまで抜擢されたのは亡き法正を除けば彼だけだ。しかし、夷陵で蜀軍は敗戦、退路を断たれた黄権は魏に亡命した。曹丕は厚遇する。

 それを知らされた蜀では黄権の家族を捕まえようとするが、劉備は断固として退けた。私が彼を裏切ったので、彼が私を裏切ったのではないと。これは銀英伝でも用いられている。
 征呉の軍中で黄権は慎重に進軍すべきだと忠告していたのだった。劉備は其れを無視して奥まで進軍した上での敗戦だった。彼の家族は父が仕えていた時と同じ待遇を与えられた。息子は蜀の最後の戦に殉じた。

 

 蒋琬の牽制戦略が蜀の活路であった証拠がある。実は蜀は魏(実質司馬昭の軍)に滅ぼされるが最後まで落ちなかった城が剣閣、雲南そして、荊州北部の柳城であった。

 

 ところが蒋琬の死後の蜀では段谷での大敗後、歴戦のベテランを数多失った姜伊は戦線を下げてしまい敵軍を誘因する戦略に変えてしまったのだ。兵力が寡兵になった故でいかんとも知れなかったが、これが結果的に命取りになった。そのために牽制戦略が意味を成さなくなってしまった。

 敵軍を本国に引きつけてしまったら機動力を発揮できない天険の国では滅亡してしまうのだ。縦深陣、誘因戦略の鍵はなんといっても敵が機動力を発揮しない=罠に誘い込まれるのが第一なのだ。

 縦深陣は回り込まれたら敗北するのは戦理が示している。遂に魏軍は蜀に多方面から侵攻する。鄧艾の別働隊が成都まで侵攻し、劉禅は面縛して降伏した。かくて司馬昭の魏軍に攻め込まれた蜀は滅亡した。

 天険、要害だからといって孤立する固い組織は柔軟性を欠き、いずれは滅亡するのである。

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コメント

うしつぎさん、こんばんは。

終戦記念日関連の記事すべて読みました

魏延が名将ですか、私は思いもよりませんでした。
孫権が過小評価してましたし。

北伐の重要性を一番理解していたのは魏延ですか。
しかし、彼の策が負ければすべてを失うというバクチに近い。
慎重な孔明として取り上げられなかったでしょうね。

そして、抜擢において三国志最高君主は劉備ですか、曹操より上だと。
三国志関連の本は数多く読んできましたが、劉備はあまりいい評価をされていません。
魏延や黄権を登用してのは劉備でしたね。
黄権の家族を許し息子の黄崇は蜀の国に準じました。

蒋琬は水運を利用して魏の国を攻めるという構想をもっていましたね。
彼がもっと長生きしてくれればよかったのですが。

諸葛鳳雛殿、コメント万歳です。遅くなりましたね。

>孫権が過小評価してましたし。

 横山三国志ですね。私も読んでました。あの頃は孫権評価は鵜呑みでしたが、今では楊儀のみ妥当と思ってます。

>しかし、彼の策が負ければすべてを失うというバクチに近い。慎重な孔明として取り上げられなかったでしょうね。

 蜀の盛衰を左右してますからね。ただ慎重さが災いして何度も北伐を行って国力を減らしていたのは皮肉ですわ。

 うしつぎが魏延名将を語ったのも是が理由です。 孔明の戦略は長安を取って関中を蜀領土とするものですから、時間が経てば立つほどに関中が魏領土で安定化すると滅んでしまう。 そうならないために孔明は北伐を繰り返して瀬戸際戦略の効果を出していたと思ったんです。なにせ蜀は西涼の馬超がいたので関中には影響力がまだ残っていたのが北伐期です。 漢中太守で長く居た魏延が分からないはずがない。その後の蜀をみても漢中太守は馬鹿が入れない重要ポストですから。

 憶測すれば魏延の速攻策はたとえ駄目でも諸葛孔明丞相がいれば国力は内政に徹すれば回復できるとの見込みで言っていたかも知れない。 兵力の逐次投入で国力を減らしたくないからと。。。

>劉備はあまりいい評価をされていません。

 まあ統一中国から考えたら劉備は天下を騒がせた人物でしたしね。それでも数多の豪傑才人英雄が集まってきたのは曹操が英雄と認める唯一の人物でした。 彼が抜擢・任用した人材が私欲で国を裏切ったのは皆無ですし、若年層や異分野からの抜擢した人材も一角の者達でした。呉のスターリンと外交で渡り合った鄧芝も劉備が出世させてました。 曹操でさえ裏切り者がいたし、呉のスターリンは文字通りベリヤみたいな奴を使ってましたから。

>彼がもっと長生きしてくれればよかったのですが。

 以前にブログで書いてもう消してしまったけれど、蒋琬の北伐構想を後年に実行したのが、劉裕です。水運と陸軍を併用して北伐を見事に成功させました。残念ながら彼自身の寿命が足りなかったので宋王朝(南朝)は関中を維持できなかった。

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