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秦戦紀

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2020年8月15日 (土)

山の竜と虎:蜀漢甲斐分析㈡

国益に狂った政治家はどのように行動するのか。

民主主義国家の国民であり、一票を投じ、国政国戦に参与する権利を有する者であるならば今一度よくよく考えるべきである。

 

 

ヴィルヘルム、ヒトラーにとどまらず、地政学の均衡を破り、紛争を生み出すのは富の偏重で事を推し進める政治家による。

 

 魯粛死後、呉は対魏の連合生存路線を自国生存路線に切り替える。自国生存は戦略で間違いは無いのだが、依りすぎると孤立主義に流れやすい。
 アメリカは孤立主義を唱えるときがあるが、南米は我が庭扱いだし何よりもアメリカ本土が資源農産物豊富である。いつでも孤立できる国なのである。 そして、孫権の呉国にはなによりも曹丕が言ったように長江という天然の要害があった。

 やはり政治家である!!! 孫権は呉国安堵のために荊州を欲した。さらに蜀では荊州の関羽が北伐に出陣する軽挙を犯す。

 

 二正面作戦は敵に対して絶大な効果がある。だが、これは連携して揃っている(邪魔が入らない)が戦略の前提である。

 関羽は戦略家とは言い難かった。留守の荊州をよりにもよって同盟国である孫呉の総司令・呂蒙に奪われてしまう。 💢💢💢これはソ連スターリンが日本にした仕打ちと全く同じである!! ❎仲謀めが!!!

 それ以上に・・・

 戦前昭和の日本政治家・軍首脳達は地政学は愚か、大陸人を知るための学問としてアジアの歴史や三国志さえ研究していなかった。

 何が大東亜共栄圏なのか! 周辺国の理解の努力すら不十分すぎた。戦前日本を動かした軍・政の枢機参与者共はあいまいな妄想のイメージで戦争を進めていたのだ。

 某大河ドラマでも言っていた、夢で飯は食えないと。正にその通りである。夢を適えるには夢を地に着けた目標としてリアリズムで努力すべきなのだ。リアリズム無き夢は妄想なのだ。妄想は無限である。人生は有限である。その差を理解するのが人の知性であり成否の分岐点であろう。

 

 孫呉の裏切りで蜀漢の地政学は完全に覆った。躍進ランドパワーから穀物エリアが隔絶したのだから。以後、蜀漢は劉備、諸葛亮、その後継者たちがその問題に取り組み、滅亡まで克服できなかった。

 劉備は関羽の弔い合戦を起こしたがその実は南荊州奪還(旧領回復)戦争である。演義では征呉戦争みたく描かれているが無理の一言で一蹴できる。戦国楚の如くはたまた後代の南朝構築を三国時代では技術、人口がそれを許さない。

 日本の戦国で言うならば武田信玄の尾張三河領有作戦辺りが劉備の思惑だったのではないか。蜀の国力では劉備の親征でも南荊州が確保できる限界領域であろう。

 

 ちなみに南朝よろしく三国時代でそれに挑戦した戦略家は呉の周瑜のみである。赤壁で曹操を破った周瑜の益州征戦は緻密と言うほか無い。

    1. 南征失敗による曹操の手が緩んだ荊州
    2. 山河に囲まれつつ天府と称されるほどに豊かでありながら兵力は弱い益州
    3. 内政は見事な主君・孫権
    4. 気にかかるが戦略が読めて、孫家の婿となった南荊州の劉備陣営
    5. そして、自らが鍛え曹操を撃破した呉の水軍力。

 とこれだけの条件を揃えて行った戦略である。機は正に赤壁勝利後でしかあり得なかった。しかし、周瑜は病死してしまい回天の戦略は名将の死と共に潰えた。それを理解して劉備と和平路線に舵を回した魯粛も流石という他ない。柱国の人と言うべきだろう。 

 

 劉備亡き後、諸葛亮の北伐は漢復興戦争だがその実は秦領土拡大によるランドパワーの確保である。長安まで領土を広げ、関中を確保して穀物エリア【生産力】を得ようというのである。これは周(対商)・秦(対三晋)・漢(対三秦・西楚)の東征と軌を一にした戦略である。

 🎁やはり諸葛亮は戦略に奇をてらわない。秦の名宰相・范雎は近くをせめて確実に保持することで領土を増やす戦略として、遠交近攻策を掲げた。それ故に近く攻め取った地は次に響かねばならない。
 👓重ねて言うが、核の生命圏だけでは躍進ランドパワーたり得ず、唯の辺境領土、フロンティアである。拡張のための穀物エリアを獲得して躍進ランドパワーとなるのである。

 

 故に諸葛亮は周が東をにらんで都を遷した岐山を、秦都・咸陽の対岸の長安を奪取することで守り易く攻めにくい、兵馬を養える地を抱える負けない戦略を行うのである。この点も武田信玄と似ているし、攻めの戦略である周瑜とは違う。

 諸葛亮死後、蜀の蒋琬~姜伊の戦略と戦争は諸葛亮の縮小版に過ぎない。西羌と協力して隴西涼州の確保路線は関中路線から戦線を押し下げたということである。

    

子供は産まれて親を選べない。しかし、大人は親(政治家)を選べる。故に百姓庶民は多くの人を救える立派な器量と才を有する自立する大人になろうと努力し、またそんな人物を選ぶ知性を育てなければならない。

孔子も仁より人を見抜くのが大事であると、知を唱えた。政治を、政治家を見る目を疎かにするということは、自分達の社会に忍び寄る禍福の変化の兆しに目をつぶるということである。

 

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