路傍の猫の死にかけを見て論語を思う
ヾ(;□;)э死が無ければ生は正しくならない。
会社に行く途中のことだった。車中で道路の脇に猫が死にかけているのを見た。
車中で見たその猫は車に轢かれたのだろう、血まみれであったが腕が動いていた。
出社途中で何もしなかった理不尽も重なり、今にも生が終わろうとする様は胸が痛んだ。
そして、思った。
生きていることは死に向かうまで生きること。
それは人種はおろか種族にいたるまで変わらない。だからこそ、死に対して悲しいと思うのだし、死の理由について考えるからこそ生きていることに対してより深く、より幸福を考えられる。
誰だって死にたくは無い。死にたくないのは何も無いからだ。何も無いのは自分が生きる間に思いが残っているからだ。 逆にいうなれば生きている間に何かを残せて、死への覚悟があれば死に対してうろたえないのだろうか?
朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり 【論語】
あれもしたい、これもしたい、もっともっとしたい。。。思いは思いでもたくさんありすぎて重過ぎるだろう(笑)。
思いが残っているより、道を知れば死に対してうろたえないと? では道とはその人の生き様だろうと思える。仕事なら失業してしまえば落胆するし、金なら無くなってしまえばうろたえる。
お金も仕事も自分から生み出したり、見つけていく。すべては自分の生き様に光があるという自信が道なのかもしれない。
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コメント
ほっしー殿、コメント万歳です!!
>適切なアドバイスを聞いて自暴自棄にならない、何事も中道ってことで。
これが一番難しいと思いますね。口に苦いほど適切なアドバイスだからどこまで耐えられるかなぁ。。。
投稿: 五遷 | 2011年9月29日 (木) 19時11分
あと、道を聞く=適切なアドバイスを聞いて自暴自棄にならない、何事も中道ってことで。悲しい事に中道を走る事ができない(マニアックな暴走)私が言ってみる。
投稿: ほっしー | 2011年9月29日 (木) 00時32分