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いけん

経験則の破壊

最近の人気娯楽作品にこの現象が見受けられる。

ぶっちゃけ言うと

どらえもんがどらえもんでなく、のびたがのびたでもない。

見る人たちには信用が置けない。

どらえもんはどら猫ロボットでなんでも発明品をだせつつも、のびたのことを思いやるキャラクターと思う。 が、経験則を破壊する作品のキャラクターにこれが通じない。

ノリがいい台詞とシチュエーションと見せ場があれば、だれにでもドラえもんをさせるのだ。

それがどんなに似つかわしくないキャラクターであっても。下種外道であっても。そこには俺が俺であるためのものはない。存在感が無い、積み重ねてきた人格もない。ただ、飛び入り参加の音頭と太鼓持ちである。

最悪言うと、人である必要が無い。

     これは最悪である。

 

人間には形にできるものとできないものがある。形にできるものだけでは文化文明は成長しないし、戦争に勝てない。

形にできないものとは第六感とか嗅覚とかフィールディングがある。が、この感覚とか嗅覚とは職人芸でこそ活かすべきものなので、それを磨くにはそこで鍛えてきた経験がなければならない。

一目見るだけで、こいつは非凡だとか、この兆候は何かおかしいとか殺気みたいなセンサーが出てこないといけない。

それなのに、最近の娯楽作品にはこういうものを破壊させていく傾向が見受けられる。

刑事コロンボみたいな経験則を活かす刑事の姿をみて魅力を感じる作品が古いものと錯覚させられてしまう。それは人間不信の兆候である。

よく空気を読めという奴がいるが、当てにならない妄言だ。なぜなら空気なんて作ってはいない。空気を読むにしても空気を作り上げる存在が何もないからだ。何もないというより不信感の塊だからだ。 だれでもドラえもんを演じているのだから。どらえもんはどらえもんしかできない存在だからこそ魅力を感じるのだから。軸が無ければ読みようがない。

この感覚が活きている人とそうでない人がいる。この違いはすぐに分かる。のれれば何でもよく、派手な活躍だけのめり込む人は明らかに後者だ。ノリがいい台詞とシチュエーションと見せ場があれば、だれにでもドラえもんをやっていいのだから。そこには誰がと言う問題はない。自由の建前で個性人格の無判別が本音だからだ。そこに至るまでの経過と背景を想像することもない。地道な人間に光を思わず、義務に理性の輝きを推し量らない。

短絡の娯楽作品が増えるような気がする。

台詞とシチュエーションと見せ場があるぬいぐるみ。しかし、ぬいぐるみの中身はどんな生き物でも入れるのだ。見て喜ぶ者にぬいぐるみの中身についてそれだけ想像を働かせているだろうか?

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