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「蒼天航路」

曹操孟徳死後の『蒼天航路』に登場した、死亡記事が確認されなかった漢達の物語。

曹操孟徳死後の『蒼天航路』に登場した、死亡記事が確認されなかった漢達の物語。

、( )は「蒼天航路」で登場した戦場地

 

1. 満寵(赤壁、合肥、荊州) :曹操張遼の死後に対孫呉戦線で活躍する。曹丕の代では曹休が戦線を担当したが、陸遜の攻撃により大敗を喫したために満寵が後任となった。合肥に駐屯して張遼の軍略を堅守して、孫権の侵攻を防ぐ。 また、軍略の面から合肥に新しい城の築城を皇帝に具申する。合肥の新城をめぐって蒋済と激しい議論となるが、朝廷は満寵の意見を採用する。この合肥新城により孫呉は滅亡まで合肥方面から侵攻できなかった。

2. 蒋済合肥、漢中、荊州、洛陽) :満寵が武将として活躍したのに対して参謀・文官・政治家として活躍する。魏王朝で曹丕曹叡と二代にわたり軍事・政治に司馬仲達と共に重用される。魏王朝文武兼備の臣と称された。 しかし、曹叡の死後におこった司馬仲達のクーデターには司馬仲達に加担して参謀として活躍する。《この司馬仲達のクーデターで魏王朝と曹一族の力は有名無実となり司馬仲達の一族が勢力を振るって、終に司馬仲達の孫・が魏王朝を乗っ取る。》

3. 顧雍合肥、寿春、荊州) :孫権が呉の君主になったときからの家臣。行政・政治面で重用され、張昭と共に孫権、呉を支える。孫権が皇帝に即位したときには初代の丞相になる。演義では際立った活躍は無し、正史三国志でも「治績極めて優れている」としか分からない、『蒼天航路』でもポツリポツリとしか出てこなかった。 しかし、この方は呉を代表するとんでもない優秀な政治家!中国明末の大学者で王船山という方は顧雍をベタ褒めしている。

王船山顧雍のことを 「余計な事は言わずに落ち着きがあって、感情にとらわれない公正無私。適所適材の人事を行い、民衆の生活のことを第一に考え、君主にひそかに進言して恩着せがましいことをしない。できるだけ部下に仕事をさせて将来の計画を立てる。名宰相の曹参のような簡素で度を外さない清らかな政治と、唐の玄宗皇帝の名宰相・宋璟のような落ち着きあって物静かで正しい政治家なのに固くない人物で、宋の宰相・李沆に近いけれど乱世の中で宰相を務めた顧雍優秀だ。」

あんな、『蒼天航路』で孫権や張昭の隅っこにいた人なのに、凄い評価もらってます。人は見かけでは理解できませんね。

4. 徐盛(赤壁、合肥、寿春) :『蒼天航路』で白髪の老人武将だった人。この方は呉で活躍しているけれど、出身地は華北。どうやら流民らしい。孫権関羽を撃殺して州を領有したために、劉備の怒りをモロ買って江南は蜀の大攻勢にさらされる。 江南を守るために已む無く孫権曹丕に臣下の礼を取りました。魏からに爵位と官位を授けに使者が来ました。孫権は気に入らぬけれども魏のほうが大国なので盛大な儀式を設けて使者から爵位と官位を授かりました。しかし、このときに徐盛が!

大泣きして言いました。「ご主君は敵国を倒して天下を統一するはずなのに、我ら家臣が不甲斐無いばっかりに敵国の爵位と官位をお授けさせてしまった。恥ずかしい事ではないか。」

これを知って、自衛隊の中に徐盛のような隊員がいるのではないかと思ってなりませんでした国の軍を駐留させてその費用を払わなければならない現状を、自分達の力で自国を守れていない屈辱を噛みしめているのではないのかと感じたのです。今では、自衛隊を憲法違反とか税金泥棒などと言う人を見ると頭にきます

徐盛はその後も呉の武将として、偽の城を造って曹丕の大軍を撤退させる大活躍をしました。

3. 丁奉(荊) :『蒼天航路』で関羽を捕まえる決死隊の隊長だった青年。孫権の代から仕えた武将。孫権の死後、司馬仲達の息子・司馬師の大軍が呉に侵攻した時、奇襲でこれを破る活躍をする。孫権から呉の最後の皇帝の代まで活躍する。

4. 寥化(荊) ::『蒼天航路』で関羽の部下だった人。州陥落関羽敗死の激闘から辛くも蜀に生還した男。 その後は諸葛亮から姜伊の北伐にも従軍して自国の滅亡を見るまで蜀の宿将として活躍した。

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