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古記

スーパー執政

さて、お隣の景勝様も書いたから、

お隣の兼続も書いておきましょう。

兼続の能力が10なら此の方は50は絶対にある!

 

王猛 字・景略。

オウモウ あざなはケイリャク。 中国・五胡十六国時代の人。ニートだった頃、南の中国人王朝の英雄にスカウトされたのに断って、異民族・氐(テイ)族の王朝だった前秦三代天王の苻堅にスカウトされたら応じた。苻堅(フケン)は王猛をとても気に入り、劉備が諸葛孔明を手に入れたと激賞する。 苻堅の下で王猛は上杉景勝の執政・兼続張りに辣腕を振るい、政・軍に大いに実績を上げる。中国西部の中小国だった前秦を中国最大の覇権国家にのし上げた。

 此の方は中国人です。生まれは貧しく、劉備の莚(ムシロ)ならぬ畚(モッコ)を売って生活をしていた。やがて志を抱いて兵法に通じるが、いろんな方のスカウトが来てもそれを避けて西へ西へと逃げていく生活を送っているニートでした。まあ、戦国の世でしたから容易に宮仕えするととばっちりを受けると考えていたんでしょうね。ある意味、仕える主君を探していた秀吉とか高虎って感じで知っておけばいいんじゃないかなァ

 以下、兼続と似ている事項が・・・。

一、私の補佐で初めちょろちょろの領土が、中頃はぱっぱと大領土。 兼続が補佐した上杉家と主君・景勝が治める領土は御館の乱から豊臣家の後押しもあって版図が拡がる。天下の豊臣家の下で謙信以上の百万石以上の版図を獲得するに至った。しかし、関ヶ原で西軍に与したために減俸され米沢三十万石にされてしまった。 

 (・∀・)ニヤニヤ こちらでも

五分の一から十分の七に! 南に中国人王朝の晋(東晋)、東に燕(前燕)に挟まれ人口も両国より少ない西の中小国の秦国。しかし、秦天王・苻堅は王猛の補佐を受けて版図を飛躍的に拡大する。東は滅ぼし、南は西半分を奪って天下を二分した。⇒関東を残した秀吉の勢力図くらいまで拡げた。しかも、独力で! しかし、王猛の死後、四、の敗戦により領内で分裂してしまい、やがて滅んだ。

ヾ(;´Д`A でも兼ちゃんが死んだときに乱世だったら、上杉家も王猛亡き後の前秦みたいになっていたかもしれないよねええ。。。 

二、北斗の七星。 兼続と景勝は唯一無二の心を許せる関係。それは上杉家の君臣となっては景勝は兼続に上杉家の全てを任せる執政に任じ、死ぬまでそれを貫く。

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主の信頼は景勝以上の猛烈さ。。王猛の主君・苻堅は自分の諸葛孔明だとして彼を絶大に信頼し、国政から軍事まで決済する全ての権限を与える。景勝が兼続の進言をあらゆるものまで容れたように、苻堅も王猛の進言と行動を全て採用する。 ※1 苻堅は何よりも王猛の意見を尊重し、反対する者は容赦なく罰を下し、先代の功臣が王猛を斬り殺そうとした時に自らその者をたたき斬ったほどだった。⇒信頼度の高さは「天地人」第33話感想記事を参照

※1 燕の将軍が秦に亡命した時に殺しなさいと進言したことだけは主君に採用されませんでした

三、直江状。戦の前に我等が義を示して味方の士気を高めるぞオオ!! 関ヶ原の戦いの先陣を切って落とした上杉。その執政の兼続は家康の詰問に直江状なる書状で上杉家の潔白と理不尽に武を振るうことも辞さずの覚悟を天下に示す。上杉家の士気は高められ、激怒した家康は上杉を騒乱の種として上杉征伐をする。ここから関ヶ原の戦いが始まった。

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向こうが書状ならこちらは誓いの言葉!王猛も燕との決戦前に将兵の前で誓いを立てる。命がけで戦い、共に大功を立てて主君・苻堅より爵位を授かり皆で父母と共に祝いの酒を飲もうと。味方の将兵の士気は凄まじく高まり食料を捨てて、我先に争うように進撃した。かくて燕軍を打ち負かし戦死者と降伏者併せて5万人以上の大勝利をあげる。その勢いを駆って東の燕を平定、北中国を完全に支配下に治めたのだった

四、追撃するなら儂を倒してからにせよって…、最後で最大の進言が採用されないなんて(涙)。 関ヶ原の戦いが始まる。上杉征伐に関東まで出てきた家康と諸大名連合軍を景勝、兼続の上杉軍は迎撃する。かねてからの作戦通りに上方で三成が挙兵したので、引き返そうとする家康を追撃しようと兼続が主君・景勝に進言する。しかし、景勝は天下を望まぬ義のために追撃を許さなかった。乾坤一擲の策が聞き入れられず、無念の兼続は弟・実頼を呼び戻して背後にくる伊達勢に備えたのだった。

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il||li _| ̄|○ il||li最後にして最大の国家戦略の遺言がふいにされ…。 西の中小国だった秦国を全中国を二分する最大勢力にまで拡げたスーパー執政・王猛さん。彼も病気には勝てずに死の床に就く。 主君・苻堅様が病気快癒のために祈祷を命じても駄目だった。死を前にした王猛は涙の主君に南には手を出さないこと、先に倒した王国の家来達は油断ならないから徐々に力を弱める工夫をしてくださいと最後の策を遺して亡くなる。

 そして、主君は遺言を守りがたく南に天下統一の戦いを始め、そこで敗北してしまいましたとさ。敗北し、それまで味方だった元・敵の降伏者たちは次々に秦から離反して勝手に独立してしまったのでした。⇒天下二分の秀吉もそのまま戦うなと言われたら抵抗できなかったかな??? 

五、死ぬときは主より先に、主家優先で自分の家は後。兼続は景勝より先に病で亡くなってしまう。兼続の直江家は養子も迎えたりしたが、長子に先立たれてしまい跡継ぎがいなくなった。兼続は100万石当時の家臣達全てを僅か30万石に欠ける事無く移封した上杉家の財政のために、最後の奉公に直江家断絶の愛をもって主家の財政の足しにしようと決めて亡くなった。

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王猛も主君・苻堅より先に亡くなってしまう。まあ、年が王さんの方が10年以上もあったそうですから。伊達政宗と片倉小十郎ってところでしょう 王猛は自分亡き後の大国となった秦国の行く末を主君に遺言をして託して亡くなる。苻堅は天は私の天下統一を奪うのかと慟哭! 王猛は自分の子供たちを何一つ主君に託さなかった。 

Σ(゚д゚lll)アブナッ ! 後年、苻堅は自分の兄の子と王猛の子から反乱を起される。反乱を起した王猛の子はその理由を父が宰相になったのに自分は栄達できないからと言ったとか。⇒伊達政宗の須田の子(伯耆)と考えればOKです! 苻堅は王猛は何もかも知っていたのかと亡き宰相の明に感心したそうです。

 

 \(^o^)/後は実頼みたいな荒くれ者を使いこなしていたくらいでしょうかね。 ⇒結構、たっぷり書いたのでこの点は後で時間があったら書いてみます。記事が欲しい人いたらコメントでお知らせを。

 兼続の武田の和議みたいなことも、王猛はより深い読みで仕掛けています

 

     以上、お隣の兼続さんことスーパー執政な王猛さんでした。

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