「真田丸」と「キングダム」
第二回
かつて「スリーキングダム」こと「三国志」にこんなお話がある。
蜀の諸葛亮死後、魏の北方、遼東の公孫淵が謀反して王を僭称した。魏帝曹叡は司馬懿に討伐を命じる。
出陣前に帝が司馬懿に敵がどのように出るのかと問う。 すると司馬懿は以下のように答える。
- 賊が最初から城から出て逃げるのが上策
- 川を根拠に大軍に抵抗するなら中策
- 籠城するなら下策
帝は賊はどれを選ぶのかと重ねて問う。 司馬懿は上策はあり得ず、中・下策を採るので虜にするに問題ないと答えた。 (以下略)
∑(=゚ω゚=;) 「真田丸」大坂の陣で信繁こと幸村の策を聞いていた時、
うしつぎは三谷氏は「三国志」の件から脚本の参考としたのかもと思った。
Σ( ゜Д゜)ハッ! それほどまで大坂の陣での信繁の策は司馬懿の策と酷似してはいないだろうか。 例えば…
徳川軍を迎え撃つ幸村の最初の策は京へ出撃=討って出るだった。
☆彡うしつぎはこれを野戦とは思わなかった。 というのは亡き父・昌幸の作戦案を参考にするならこれはヒットアンドウェイになるからだ。昌幸も尾張を焼いてすぐに捨てろと言っていた。
京にいる家康を狙う。それに徳川が防衛する。これを幾度も繰り返して疲労を蓄積させられることができる。 徳川は行動の自由を制限され、大坂方はゲリラ戦のように動ける。
正に!o(゚Д゚)っ司馬懿の上策にある、敵が自由でこちらは捕捉できないの戦理そのものではないだろうか!
Σ(;・∀・) では次に司馬懿の中・下策から幸村の次善の策を検討してみよう。
司馬懿の中策は河川に寄る、下策は籠城であった。それなら幸村の真田丸はどうなのか??
☆彡うしつぎは中の下策であると思った。 ばばぁこと大蔵卿局たちの籠城策とは馬出し、出丸不要の文字通りのお城に籠って持ちこたえる作戦だった。 だが、三国時代の司馬懿は籠城は最後の手段であり、兵の自由が殆ど取れない下策と認識していた。上田で二度も戦っていた幸村にそれが分からぬ筈はない!
だからこそ地の利を活かした真田丸の築城にあれだけこだわったのだと思う。
(σ・∀・)σゲッツ 地の利を活かして戦うのは司馬懿の中策に適うのだから!!
||Φ|(|゚|∀|゚|)|Φ||そして、中策は上策への切り替えも可能であることは言うまでもない!!! 「三国志」でも劉備が蜀取りには中策から上策への切り替えを行っていた。
おそらく完封後の幸村も守りを固めた後、徳川軍が膠着して厭戦気分が高まり兵を引こうとする時にはためらうことなく出撃していただろう。
やはり信繁は名将であるなぁと思う。
第二回「司馬懿と幸村にみる名将の作戦案」 了
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