再版書
深読み過剰から歴史を語る
遠交近攻について
古今東西で必ず使われる戦略の「遠交近攻」。 国単位から企業、果ては友人関係まで良く使われるのですが、意外と成果のみを重視して手順を逆さにして使われていると思う。
「遠交近攻」は中国古代の戦国時代、秦国宰相の范雎(ハンショ)が唱えた外交戦略に端を発する。秦国は始皇帝が天下を統一するまで「遠交近攻」を外交の基本戦略にした。 それまでは真逆の「遠攻近交」だったのを、范雎が遠くを攻めても近くで足元をすくわれるの愚かさを諌めて、秦は外交方針を変更した。
「遠交近攻」はシンプルでありながら広域な戦略を描けるので何処にでも当てまめられる。戦略戦術はシンプル・イズ・ベストが最も善しとされるので古今の戦略家としても范雎は不朽の名を刻んだ。
「遠交近攻」は言うが如く、遠くと交わり近くを攻める戦略である。内容はその通りであるのだが、それだけで大丈夫とは言いがたい。
「遠攻近交」だった秦は周囲を包んで近くを取り込もうとしていた。どちらの戦略にしても天下統一が最終目標だったので、近隣を取り込んでおいてから、遠くを攻め落としてしまえば返す刀で近隣を勢いで落とすと考えたらしい。故に「遠攻近交」」とは、“道を借りて草を枯らす”(三国志演義)、“晋、カクを滅ぼし虞を取る”(春秋)戦略の他ならない。
その真逆たる「遠交近攻」は范雎によれば、
1、近隣諸国と親しんでおく。 2、その関係により遠方の諸外国を威嚇する。 3、威嚇した上で遠交をする。 4、近隣諸国を狙う。
となる。大抵は3から4で戦略プランを立ててしまうのが多数派なのだが、本当は近くから始っている。 それでも成果を見込める着実な戦略プランであるので大抵はこれでも成功するのだが、本当は1と2が重要な要素を占めている。
この失敗例で代表的なのは何と言っても武田信玄だ。
甲斐、信濃をほぼ手中に収めた武田信玄が狙ったのは姻戚関係だった駿河の今川家だった。「遠交近攻」に従い織田信長と同盟を結び、駿河を順調に攻め込む。 しかし、信玄がうかつだったのはそれまで同盟関係だった近くの北条家を放置していたために駿河侵攻を阻まれてしまい、一次撤退させられたケースがある。
何より「遠交近攻」で必要なのは近くを固めてから遠くを懐柔して、それから近くを収めていく戦略ということでした。
分かった? 某アニメの宰相さんや。。。
2014年作
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