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後書

(自説)大河ドラマに、歴史ネタアニメに魅入られようとも、歴史を学んだことにはならない。                 

歴史から学ばねばならないこととは…、

 

いろいろあるけれど幾つかは。。。

一、その当時の国々の世情と常識。 

 龍馬伝が描いている幕末のように平和ボケしている日本と世界中を荒らしまわって市場を確保し、国際ルールとして作ってきた狩猟民族の末裔国家の常識の違いは和親条約ですら露骨だった。 礼砲すら間違えばルール違反だとして咎められるし、領海領土に言及しなければ国境線だと既成事実にされ、侵犯ちょっかいや居座られるのを黙認すればこれまた既成事実にされ相手の領海にされる。

 既成事実の力のルールが国際社会の常識であり、現在も変わらない。人物ドラマだけではこれは学びにくいかも。よほどにきちんと世界観を描かなければ駄目だろう。龍馬伝では???

二、歴史は非情の実行者が斬り開いてきた。

 日本では軍師、作戦(計画)立案者がもてはやされるが歴史は実行者の非情の決断で動いている。実行者の舞台はきまって政治。政治の世界を延長すれば戦争もその範囲内で戦争、戦勝を処せるかどうかが有無能の分かれ道。但し、戦場はプロに任せることが前提条件。 故に権力者の正義と非情の決断を尊ばないと歴史が分からない。戦国の名君・権力者の手は汚れている。義理だけの権力者像はない。

三、憐憫は災いの種、非道の端緒は次の善行への扉。

 恨みの計画を考慮しない半端な憐憫は災いの種になる。これを防ぐにはタリオ(同害法)を厳格に行うのみ。恨みは無力化を旨とし寛容と金のみで無力化とはならない。非情の決断は侵略であろうと歴史上には無駄は無い。被害を恐れ、失敗から学ばないのは行動しないのと同価である。

2014年作

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